国立歴史眠蔵博物館に行って色々と興味が惹かれました。
先史から縄文を見ていて
渦巻きの模様が多用されるのですがなぜか全部左巻き(なぜ?)
そしてそれに触れられていない(なぜ?)
・アイヌの渦巻き
モレウ(渦巻)[morew]
モ(ゆっくり) レウ(まがる)
渦の文様には「力」「パワー」という意味があるという。
・釈迦の髪(螺髪)
・釈迦の悟りの白毫
・渦巻きは太陽の形?
・日輪
・輪=円(渦巻き)
縄文は狩猟生活で原始的で未開であったという風に教えられますがわたしはそうではないと思っています。
たとえば石を巨大なサークル状に並べるというのは、どう考えても普通に思い浮かぶものではないですし
色々な形の土偶は宇宙人にしか見えないと思うのです
ナスカの地上絵などもそうですが、ヒューマンスケールを超えた幾何学を先史の人がなぜひつようとしたのか
縄文時代には人と人が殺し合ったという形跡はみられないそうです
わたしは直感で確信しているのですが、この時代は地球外から意識体や生命体と地球人が密にコンタクトしていたということと
左より右脳(直感)が優位であったため個と言う意識が低く、また誰かを傷つけることは自分も深いところで他と繋がっており
自然を含め不必要に他を傷つけることは自分をも傷つけることだとわかっていたのではないでしょうか?
弥生時代から先は大陸からの人の流れが合流しましたが
これが意味するのは新たな人間としての可能性を展開させる
要は右脳的な世界を左脳的な社会構造を取り入れることによりより、進化した意識体へと変貌しようとした試みであったのではないかと思うのです
そして空間と時間の支配が始まり、人間は他を差別化し価値をつけていきます
幸福で満たされた時代は終わり、脳の機能としては小さな部分のエゴが支配する世界へとガラパゴス島の日本もそうなっていきました
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霊感とよくいいますが
たとえば風の匂いや季節の匂い
人にまとわりつく色
バイブレーション
空間、土地の快、不快
などそういうものが現代では感じられなくなっている人が多いです
近代は合理性の元不確実な要素はないものとして科学的に設計するくせがあります
たとえば今の主流の経済学は人間のもつ曖昧さは計算されず、人間は功利性によって定義されます
街や経済がそのように設計されているので私達は本当の幸せを感じにくく、いや感じることが極めて難しい状態にされていると思います
ネイティブインディアンには地球外生命体とのコンタクトの話が口伝で残っています
地球外生命体は私達より非常に精神性も技術も高次元です
東南アジアや私達の先住民(アイヌなど)も自然を神とし地球にあるすべてのものを敬い
動物は神の使いだとしています
その感覚が現代人には実感としてあまりないです
わたしは蝶や鳥、そのたの小動物
虫
植物、樹木、花
池
草、月、雲
色々なものに生命を感じます
特に蝶はほんとうにかわいい
自然は自分たちの外部ではなく、わたしたちの内部、精神世界と深く繋がっていて
神秘の世界に私達は生きている
ミヒャエル・エンデが描いたモモの世界のように
この世界はファンタジーと幻想とワクワクで満ちている
そんな世界はとても優しさで満ちていてあたたかい
そんなことをわたしは映像や写真、音楽で伝えていきたいのです